駅前のコンビニでふと目に入った、成人向け雑誌棚。その前で仁王立ちしながらページをめくるスーツ姿の中年男性。目は真剣、背筋は若干丸く、なぜか自意識だけがシャープだ。
私はこういう人種を「社会的バランス感覚ギリ健おじさん」と呼んでいる。
なぜなら、彼らは「人目を気にするけど読む自由は捨てない」という、社会と個人の微妙なあわいで呼吸しているからだ。目の前のページにはグラビア、背後には小学生。なんという社会の臨界点。
表現の自由と“他者のまなざし”
この風景を笑うのは簡単だが、実はここに現代社会の倫理的バランスが凝縮されている。
そもそも、ポリティカル・コレクトネスと表現の自由はしばしば衝突する。 「不快に思う人がいるからやめろ」という声と、「嫌なら見るな」という反論。 これは、異なる価値観を持つ者たちが同じ空間に生きているからこそ生じる摩擦だ。
このとき、「だったら住み分けよう」とばかりにコミュニティを細分化し、“安全な空間”を作るのがよくある対策。 たとえば、エロ本を成人コーナーに隔離したり、オンラインではタグ付きのクローズドスペースで見せるようにする。
確かに便利だ。だがそれは、過激化と閉塞の温床にもなりかねない。
視線が倫理を育てる?
「他者の視線」は、法や罰則ではなくやわらかな社会的制御装置だ。 目の前に子連れの母親が通るなか、立ち読みを続ける「ギリ健おじさん」は、視線に晒されることで自問する。
「俺、このままでいいのか?」
この羞恥や緊張が、暴走を防ぎ、自由の枠内での自己規律を生む。 つまり、エロ本が“見えてる”棚にあること自体が、公共性の一部を形成しているということだ。
完全な区画化は「安心」かもしれないが、そこには他者のまなざしがない。 その結果、刺激はエスカレートし、過激な表現へと傾くリスクがある。
ハイパーノームとローカルノームの相互作用
社会規範には、グローバルな「最低限守るべきルール(ハイパーノーム)」と、地域や文化固有の「ローカルノーム」がある。
例えば、「児童ポルノは絶対にNG」というのはハイパーノームだが、「セクシーグラビアの許容度」は地域によって異なる。 コンビニでの配置の仕方も、その地域の“空気”によって変わってくる。
ここで重要なのは、両者が排他独立ではなく、相互にフィードバックし合うこと。 ローカルな慣習が過激化すれば、ハイパーノームが是正を促し、逆に草の根から新しい倫理が芽生えることもある。
そう考えると、コンビニのエロ本棚というローカル装置は、ハイパーな倫理とのリアルタイム交差点でもあるのだ。
ギリ健おじさんと私たちの社会
「公共の中で自由に振る舞いつつ、他者の目も感じながら抑制する」。 このギリギリのバランスが崩れたとき、社会はどこかで暴走し、あるいは窒息する。
ギリ健おじさんは、笑われながらもそのバランスを体現している。 彼が1ページめくるたびに、我々の自由社会は1ミリずつバランスを保っているのかもしれない。ある意味で彼は、人類最後の社会的ブレーキ装置なのだ。
あなたの街のコンビニにも、彼がいるかもしれない。 そっと見守ってあげよう。彼こそが、リベラルデモクラシーの最前線なのだから。